【感想】うさこちゃんときゃめる/ぶん・え ディック・ブルーナ、訳 松岡享子(福音館書店)
子どもの頃から親しんできた「うさこちゃん」シリーズ。
娘に読み聞かせようとあらためて内容を確かめると、作品によっては「ドキッ」とさせられます。
ある夜読み聞かせたこの本も、そのうちの一冊。
—
ふわかあさんと一緒にお買い物に行ったうさこちゃんは、こっそりお店のきゃらめるをポケットに忍ばせてしまう。
ふわかあさんにうちあけることができず、夜になってもねむれない。
翌日、うさこちゃんの様子がおかしいことに気づいたふわかあさんが事情を聞くと、うさこちゃんはお店のきゃらめるをぽけっとにいれて帰ってきてしまい、まだそこにあることをうちあける。
うさこちゃんとふわかあさんは、おみせにきゃらめるを返しにいき、もうこんなことはしません、と約束する。
—
「なんでねむれないのかな?」
娘にたずねると、首を横に振ります。
「きゃらめるをぽけっとにいれちゃってよかったのかな?」
とたずねると、
「いけない。お店のものだから。」
うさこちゃんが悪いことをしてしまったと、理屈は理解している様子なのに、なぜそれが眠れないことにつながるのか、幼い娘にはまだわからないらしいのです。
娘が同じような気持ちで、初めて眠れなくなるのはいつだろう。それはどんなことをしてしまったあとだろう。
悪いことをしたとわかっていても、うちあけたりあやまったりするのは、経験を積んだ大人でも苦手なものですよね。
むしろ「嫌だな」と感じるのは、悪いことをしてしまった気づきがあるから。反省の気持ちがあるから「嫌だな」と思うんじゃないでしょうか。
しんみりと考え込んでしまい、このお話をどんなテンションで終わらせようかと困っていたところに娘からの助け舟が。
「ねぇねぇ、うさこちゃん『ごめんね』って言ってないよ!」
「ほんとだね。悪いことしてしまって反省してても、相手にわかるようにきちんと伝えないとね」
無難な返しで読み聞かせを終え、娘はすやすや眠りにつきました。
しかし、今度はわたしが眠れない。
はたして、「ごめんなさい」は必要だったのでしょうか?
うさこちゃんは、きちんと解決策を提示したのだから不要なのでは?きっと、うさこちゃんが外国の作品であるところに論点があるのでしょう。
「まずあやまる」「あやまらせる」「あやまればゆるしてもらえる」という文化が、すでに幼児教育の期間に身についていることに少し違和感をおぼえたので、別の機会にじっくり謝罪の文化について考察してみたいと思ってしまったのでした。
絵本って哲学。
◆娘=3歳(読書当時)
◆ジャンル:えほん
◆発売日:2009/4/15
◆日本語
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